ある月曜日の午後、小太郎は銀時や晋助と一緒に、近所のお寺にある大きな楠の木陰で本を読んでいました。
読んでいるのは、その日発売されたばかりのジャンプです。
銀時と晋助が、どちらが先に読むかで喧嘩を始めてしまったので、小太郎が取り上げて、平等に読んでやっているのです。
「ザシャア!な、なにぃ!ばかな!フフフ、せいんとに一度見たわざはつうようしない…き、きさまはふしちょう!」
「ちげーよ。フェニックスだよ。ちゃんとふりがなよめよ。つーか何がおきてんのかぜんっぜん伝わんねーよ!」
「兄さん!来てくれたんだね(小太郎裏声)!…フッじごくからまいもどったぜ(小太郎低音)」
「だれが小芝居しろっつったよ!よけいムカつくからやめろよ!」
小太郎がせっかく創意工夫を凝らして読んでやっているのに、銀時は気に入らないようでぶうぶう文句ばかり。
晋助はさっきから、両手で耳を塞いで目もぎゅっと閉じて丸くなっています。
「しんすけ、それではよくきこえんだろう」
「ネタバレいやなんだよ。さっしろよ」
晋助の代わりに、銀時が返事をしました。おかしな奴だなあと思いながらも、小太郎はジャンプを朗読し続けます。
巻末の作者コメントまで読み終わったところで顔を上げると、銀時も晋助もとうにすやすやと眠ってしまっているではありませんか。
けしからん。二人の良くないところは、気分にムラがありすぎる事です。
ぷりぷりと小太郎が腹を立てていると、目の前を不思議な生き物が通り過ぎました。
「いかんぜよ。いかんぜよ。遅刻してしまうぜよ」
そう言いながら走っているのは、もじゃもじゃの毛に真っ赤なコートを羽織った茶色いうさぎでした。
黒い眼鏡をかけて、手には銀色の高級そうな懐中時計を持っています。
小太郎の目が、きらきらと輝きました。
うさぎのくせに、人の言葉を喋ったり、コートを着ていたり、時計を持って時間を気にしているなんて、おかしなことばかりです。
しかしそれよりも、ふわふわと柔らかそうなその毛並みの見事なこと!
『モフりたい!』
そう思った小太郎は、とっさにうさぎの後を追いました。
「遅れたら、陸奥にお仕置きされてしまうぜよ。ミートパイにされてしまうぜよ」
うさぎは大慌てで、ぴょこぴょこ跳ねながらお寺の本堂の縁の下に飛び込みました。
小太郎も背を屈めてその後に続き、薄暗い中でうさぎの姿を探します。「いかんぜよ」という声が反響して床下に響いています。
「うわぁ!」
そちらに向かって進もうとした時、不意にぽっかり開いた竪穴に転がり込んでしまいました。
古井戸の跡でもあったのでしょうか、その穴はもの凄く深くて、いつまで落ちても底に着きません。小太郎はどこまでもどこまでも落ち続けて行きます。
さいしょはびっくりしていましたが、次第に落ちながら小太郎は考え事をする余裕さえ出てきました。
このまま落ちていったら、どこかまったく知らない土地についてしまうかもしれない。ひとまず、挨拶の練習でもしておこうか。
落下しながら背筋を伸ばして、小太郎はお辞儀の練習をしました。
「こんにちは、かつらこたろうと申します」
それからちょっと考えて、「はぎにかえるには、どちらに行ったらいいですか?」と尋ねる練習も。
何度か繰り返しましたが、まだ穴の底には着きません。
だんだん、小太郎は眠くなってきて、うつらうつらとし始めました。
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どすん、と尻餅をついた衝撃で、はっと小太郎は目を覚ましました。
やっと穴の底に着いたのかと、立ち上がって辺りを見回すと、そこは地底の国ではなくごくごく普通の往来の真ん中でした。
ただ、小太郎の育った町では見たこともないほど大勢の人や店で溢れています。
いったいどこから落ちてきたのだろうと上を見上げましたが、夕暮れ時の空が見えるばかりです。
目の前は何かのお店らしく、看板に『スナックお頭裸』と書いてあります。その上の看板には、『万事屋晋ちゃん』。
「すなっく、お…?」
読めない漢字に首をひねっていると、目の前の戸がからりと開いて、のれんを手にした髪の長い女の人が店の中から出てきました。
のれんには、「おずら」と書かれています。なるほど、おずらと読むのかと小太郎はひそかに合点しました。
「うん?」
店の前で佇んでいた小太郎に気づき、女の人がおっとりと首を傾げます。
「うちの店に、何か?」
「…かえりみちが、わからなくなってしまいました」
急に心細くなってきて、小太郎は挨拶の練習をした事も忘れて女の人に訴えました。女の人がどこか、母上に似ていたせいかもしれません。
「なんだ。迷子か」
すこし驚いたような顔をしてから、女の人は優しく微笑むと「おいで」と言って店の中に戻っていきます。
慌てて小太郎も、その後ろから着いていきました。
店の中では、男の人が一人カウンターに座ってカレーライスを食べていました。
まだ『準備中』の札がかかっていたはずなのに、お店の人だろうかと思って見ていると、男の人も小太郎に気がついてぎょっとしたようにカウンターの奥に姿を消した女の人に尋ねました。
「おいズラ子!なんだァこのガキ」
「迷子だそうだ。今から夕餉を食わせてやるから、家族が見つかるまで二階で預かってくれ」
「はぁ!?冗談じゃねぇ、なんで俺が」
「ここは飲み屋だぞ。盛り場にこんな子供を置いておくわけにはいくまい」
「うちだって託児所じゃねぇよ」
「居候のくせに文句を言うな。お前のところなら、また子ちゃんでも河上の小僧でも子守りくらい出来るだろう」
そう言われると、男の人はふて腐れたように黙り、じろりと小太郎を睨みつけてきました。二階が住まいということは、この男の人が『晋ちゃん』なのでしょう。
『晋』は習っていない漢字ですが、晋助の名前と同じなので小太郎にも読めるのです。
小太郎は深々と頭を下げて、お辞儀をしました。
「よろしくおねがいします。しんさん」
大人の人なので、「しんちゃん」ではいけないだろうと思って「さん」と呼んだのですが、晋さんはスプーンを咥えたまま眉間に皺を寄せています。
怖い人なのだろうかと少し不安に思っていると、奥から戻ってきた女の人―ズラ子さんが、「心配ないぞ」と小太郎に微笑みました。
「こいつは強面だが、面倒見は悪くない」
「…うるせえよ」
「リストラされた中年男を助手にしたり、家出中の女子高生をバイトに雇っているせいでちっとも儲かっておらんが腕は悪くない。お前の親御もすぐに見つけてくれるだろう」
「余計なことゴチャゴチャ抜かしてんじゃねぇよ」
むっすう、とさらにふてくされた顔になってしまった晋さんは、ちょうど晋助の家に遊びに行って、母上殿が「あらあらいつも遊んでくれてありがとう」と出てきた時に「来なくていいよ」とむくれてしまう晋助の顔のようで、小太郎はおかしくなってふきだしてしまいました。
ズラ子さんが、「何が食べたい?蕎麦か、蕎麦はどうだ、蕎麦がいいだろう?」と畳み掛けるように尋ねてくるので、はいと頷くとすぐに温かいかけそばが目の前に置かれました。
かつお出汁の良い香りがぷんと漂ってきます。
「もっといいもん出せよ」
かつかつとカレーを口に運びながら、晋さんがズラ子さんにぼそりと言いました。やはり、根は親切な人のようです。
「そばはこうぶつです!」
慌ててそう言うと、こちらを見て細い目で何度か瞬きをして、「ふうん」と言ったきりコップの水を一気飲みして立ち上がりました。二人の事を嬉しそうににこにこ見ていたズラ子さんが、手を伸ばして空のお皿を片付けながら尋ねます。
「おかわりは?」
「いい」
ポケットから小さな機械を取り出した晋さんが出て行きそうなそぶりを見せたので、一緒に行った方が良いのだろうかと小太郎が焦って蕎麦を啜っていると、わしゃわしゃと頭を撫でて、「食ってろ」と言われました。
「ちょっと電話してくる。金時に」
「ああ。それがいいな。リーダーに聞けば情報が早い」
ズラ子さんと短く言葉を交わして、晋さんは小太郎を見下ろします。「お前、名前は?」と聞かれたので「かつらこたろうです」と答えると、ズラ子さんと晋さんが驚いたように顔を見合わせました。
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「そうか、お前、桂小太郎だったのか」
晋さんが出て行くと、ズラ子さんが小太郎の隣に座って、お茶を啜りながら「困ったな」と溜め息をつきました。
なにかいけないことを言ったのだろうかとどきどきしながら小太郎が首をかしげていると、ゆっくりとズラ子さんが頭を撫でます。
「なんとかして、帰してやるからな。心配するな」
まるで、小太郎がどこから来たのか知っているかのような口ぶりでした。
「早く帰ってやらないと、友達が寂しがるだろう」
友達と言われて、晋助と銀時をお寺の木の下に置いてきた事を思い出しました。目が覚めた二人は、小太郎がいなくなって探しているかもしれません。
しかし、薄情なあの二人の事です。小太郎の行方など気にせずに、さっさと帰ってしまったかもしれません。
いつだって、ものぐさな銀時や家にこもりがちな晋助を引っ張り出すのは小太郎の仕事なのです。
小太郎が行こう行こうと誘うから、仕方なく、しぶしぶといった顔で晋助も銀時も近所の子供達の仲間に加わるので、きっと、迷惑しているのです。
なんだか急に悲しくなって来ました。
「ぎんときもしんすけも、どうせ俺のことなどいらないなのです。だからさみしがったりしないんです」
「どうせ、などと言ってはいけないよ」
ズラ子さんの目元が少しだけ厳しく細められて、それからまたふわりと優しくなりました。
「きっと心配しているとも」
「…そうでしょうか」
「そうだとも」
ズラ子さんは何度か頷くと、「だから」と小太郎の手をきゅっと握りました。
「だから、いつか離れ離れになっても、あきらめてはいけないよ」
どうしてそんな事を言うのだろうと不思議に思っていると、ちょこん、とカウンターの上に子うさぎくらいの大きさの白い生き物が飛び乗ってきました。
思わず抱きしめたくなるような可愛らしい生き物です。
「エリザベス」
ズラ子さんが、はっとした声でその生き物を呼びました。
「そうだ、エリザベス。お前ならこの子を帰してやれるかもしれない」
ズラ子さんにそう言われると、エリザベスと呼ばれた生き物はひとつ頷いて、ぴょんとカウンターから床に飛び降りました。
そして、むくむくと膨らむように大きくなり始めました。
見る間に見上げるほどの大きさになったエリザベスの口がぱかりと開いて、真っ暗闇の中から二つのギラリと光る目が小太郎を見つめます。
「怖い」と思って後ずさった瞬間、口からがばりと毛むくじゃらの手が伸びてきて、小太郎を捕まえると頭から丸呑みにしてしまいました。
暗転する視界の中で、小太郎の耳にズラ子さんの声がこだまのように響きました。
「あきらめてはいけないよ」
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「おい、ヅラ!ヅラってば!」
目を開くと、銀時と晋助が小太郎の顔を覗き込むように見ています。
ぱちくりと瞬きをして、「ヅラじゃない。桂だ」と答えると、二人はほっとしたように顔を見合わせました。
「何回呼んでも起きねーから、死ぬのかと思った」
「いつもは変ないびきかいてるのに、黙って寝てるんだもんな」
先に寝てしまったのはそっちのくせに、銀時と晋助は怒ったように口々に文句を言います。
でも、どうやら心配していたらしい様子に、小太郎は満足してぴょこんと飛び起きました。
「大丈夫だ。暗くなるから早く帰ろう」
ゆっくり歩き出してから振り返ると、長く伸びた影の先に銀時と晋助がだるそうに着いて来ます。
その向こうの宵闇の中に、一瞬だけ、もじゃもじゃうさぎが顔を出して、黒いレンズが西陽を反射してきらりと光ったような気がしました。
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